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辻邦生『ある生涯の七つの場所』

新書
後藤和智おまえが若者を語るな! 』
仲正昌樹『〈宗教化〉する現代思想

現代思想・社会
宇野常寛ゼロ年代の想像力
濱野智史アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』
仲正昌樹『〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み』
○思想地図〈vol.5〉

哲学
永井均『倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦』
中島義道『差別感情の哲学』
熊野純彦レヴィナス入門』
アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』
◎テリー・イーグルトン『ポストモダニズムの幻想』

22/10/27今のプロフィールメモ

高校三年生理系男子。東大志望でない。彼女いない歴享年。 最近のテーマ〈私は他者を軽蔑しない〉〈違和感〉〈生(ショウ/life)とバッドエンド〉〈感情(情緒)論〉〈思考のいち機構としての感情〉〈考える〉

22/10/06倫理について

倫理の要求が分かっているうえで倫理を越えてしまう時、倫理に対する信用への疑問がその行動そのものの意味と同時に表明される。しかし倫理に対する信用への疑問の割合が高いほどに疑問がその行動の意味を満たし、その行動の倫理を越える度合いは意味をなさなくなり、結局行動の結果は縮小してしまう。

[殺人]の意味が「[殺人]はいけない」ということを含む倫理体系に対する疑問(と、それに基づくいくつかの主張)であるときを仮定する。(それはアートと呼ばれたりするかもしれない)
この[殺人]は「この」[殺人]の是非という倫理的な問題(「主張を聞いてもらうために[殺人]だなんて、とんでもない。」)を越えて(見たものに越えさせて)、倫理に対する信用を揺るがし、議論を生もうとするものでもある。
しかし倫理は自分を絶対不可欠のものだと主張しながら存在するため、それで揺るいだ「倫理」はもはや倫理ではなく、揺るがされた「倫理」を切り取りながらより強いパーツによって同じ部分が補填される。
したがってこの[]に代入される反倫理的な行動の反倫理的な度合いが強いほど、強い意味が発される分、結果はむしろ倫理の強度を保証するものとなってしまう。

今考えたのは、反倫理的な行動の意味が純粋に倫理体系に対する疑問である場合である。他にも倫理的観点から「[殺人]はいけない」という倫理的要求の矛盾を暴こうとする(「[人は地球に悪い影響を及ぼすから、][殺人]って、別に悪いことではないでしょう?」)意味があるだろうし、当然精神的・肉体的・経済的欲望あるいは欠乏を満たす(普通のドラマや小説で描かれうる普通の[殺人])という意味もあるだろう。
しかし少しでも倫理体系に対する疑問があった場合、その倫理体系に対する疑問という意味を結果として成就させるためには、他の意味を抑圧しなければならない。なぜならそれ以外の意味は、自分が倫理体系を信じていることを表明してしまうからである。そこで前述の通り、全体の意味を抑圧するマスターボリュームたる倫理体系に対する疑問の意味に対して結果の縮小化がなされてて、[殺人]そのものの意味まで縮小されてしまう。
そしてこの過程は当然、[殺人]を見た一人ひとりの中でも起こり、[殺人]の意味は二重に縮小していく。だからこそ反倫理的な行動の意味を減らす方向へ動く社会は、倫理を自分を絶対不可欠のものだと主張しながら存在させるのである。

一方倫理体系に対する疑問を持たない[殺人]は、犯した者はわけも分からずに裁かれる。そのとき社会的な問題や倫理の内部の問題が問われるかもしれないが、倫理体系そのものについては何も触れられずに終わる。この場合には社会はその存在の矛盾を問われずに、「この」[殺人]の意味までも取り込んでより高度なシステムに成長してしまう。


倫理あっての社会であり、社会あっての倫理である。しかしながらその二つは独立でもある。
倫理には自身に対する疑問を持つことを否定する力はない。(倫理が社会を必然的に伴うことについては先ほど前提としたが未検証。検証できたなら、「倫理そのものには」と訂正するべきだろうが、今はしないでおく)その疑問の意味を縮小しうるのは社会であり、社会に生きる以上倫理に疑問を持つことに意味は無い。
倫理に疑問を呈しうるのは社会から離れたところにおいてだ。社会にいることを前提にしながら倫理に疑問を持つのは、理論的に社会生活を支持するのならば矛盾した行為である。

届かない「死にたい」

Twitter(2010.10.05 21:43-2010.10.05 22:21)

友達でも女でも宗教でも思想でもスピリチュアルでも(芸術でも)なんでもいい後ろ盾がほしい

「死にたい」に呼応する存在を持つか持たぬか 持たぬ者の空虚な「死にたい」を、純粋な「死にたい」を見つけにいけるWebの海は毒の海

孤独は伝わった瞬間に孤独ではなくなる。だから世界中に孤独な人間はぼく以外存在しえない。自分も他人もぼくを孤独でなくすることはできるが、他人にぼくを孤独にすることはできないというこの恐るべき対称性の破れ、奇跡的な確率で救われなかった絶望の手をのばすぼく。

僕が言葉にした気持ちをあなたは分からないという。あなたは別に「僕の気持ち」を分かる必要はない。ただあなたは、あなた自身のことが分かっていないんだ。だからあなたは、僕がなぜ「僕の気持ち」を言葉にしたのかがわからない。


「死にたい」が届かないのが孤独だ。僕の定義する「孤独」だ。そしてこの孤独は、今こうやって記述される限り、誰にも分からない。誰も孤独ではない。誰かが分かったとしたらそれは「孤独」ではなく、「その人の孤独」だ。
しかし僕は、僕以外にも「孤独」な人がいるはずだと思う。2ちゃんねるとかに書かれた記述から、同じような「孤独」を感じることがある。そして孤独を感じるか否かは、人の性質であるように思えるのだ。