22/10/06倫理について

倫理の要求が分かっているうえで倫理を越えてしまう時、倫理に対する信用への疑問がその行動そのものの意味と同時に表明される。しかし倫理に対する信用への疑問の割合が高いほどに疑問がその行動の意味を満たし、その行動の倫理を越える度合いは意味をなさなくなり、結局行動の結果は縮小してしまう。

[殺人]の意味が「[殺人]はいけない」ということを含む倫理体系に対する疑問(と、それに基づくいくつかの主張)であるときを仮定する。(それはアートと呼ばれたりするかもしれない)
この[殺人]は「この」[殺人]の是非という倫理的な問題(「主張を聞いてもらうために[殺人]だなんて、とんでもない。」)を越えて(見たものに越えさせて)、倫理に対する信用を揺るがし、議論を生もうとするものでもある。
しかし倫理は自分を絶対不可欠のものだと主張しながら存在するため、それで揺るいだ「倫理」はもはや倫理ではなく、揺るがされた「倫理」を切り取りながらより強いパーツによって同じ部分が補填される。
したがってこの[]に代入される反倫理的な行動の反倫理的な度合いが強いほど、強い意味が発される分、結果はむしろ倫理の強度を保証するものとなってしまう。

今考えたのは、反倫理的な行動の意味が純粋に倫理体系に対する疑問である場合である。他にも倫理的観点から「[殺人]はいけない」という倫理的要求の矛盾を暴こうとする(「[人は地球に悪い影響を及ぼすから、][殺人]って、別に悪いことではないでしょう?」)意味があるだろうし、当然精神的・肉体的・経済的欲望あるいは欠乏を満たす(普通のドラマや小説で描かれうる普通の[殺人])という意味もあるだろう。
しかし少しでも倫理体系に対する疑問があった場合、その倫理体系に対する疑問という意味を結果として成就させるためには、他の意味を抑圧しなければならない。なぜならそれ以外の意味は、自分が倫理体系を信じていることを表明してしまうからである。そこで前述の通り、全体の意味を抑圧するマスターボリュームたる倫理体系に対する疑問の意味に対して結果の縮小化がなされてて、[殺人]そのものの意味まで縮小されてしまう。
そしてこの過程は当然、[殺人]を見た一人ひとりの中でも起こり、[殺人]の意味は二重に縮小していく。だからこそ反倫理的な行動の意味を減らす方向へ動く社会は、倫理を自分を絶対不可欠のものだと主張しながら存在させるのである。

一方倫理体系に対する疑問を持たない[殺人]は、犯した者はわけも分からずに裁かれる。そのとき社会的な問題や倫理の内部の問題が問われるかもしれないが、倫理体系そのものについては何も触れられずに終わる。この場合には社会はその存在の矛盾を問われずに、「この」[殺人]の意味までも取り込んでより高度なシステムに成長してしまう。


倫理あっての社会であり、社会あっての倫理である。しかしながらその二つは独立でもある。
倫理には自身に対する疑問を持つことを否定する力はない。(倫理が社会を必然的に伴うことについては先ほど前提としたが未検証。検証できたなら、「倫理そのものには」と訂正するべきだろうが、今はしないでおく)その疑問の意味を縮小しうるのは社会であり、社会に生きる以上倫理に疑問を持つことに意味は無い。
倫理に疑問を呈しうるのは社会から離れたところにおいてだ。社会にいることを前提にしながら倫理に疑問を持つのは、理論的に社会生活を支持するのならば矛盾した行為である。